宗像大社 / 福岡

宗像大社

宗像大社の祭神について

祭神の宗像三女神は、アマテラスとスサノオとの誓約(ウケイ)を通して生まれました。

スサノオは母イザナミに会いに行く前に、高天原のアマテラスに会いに行きました。
アマテラスはスサノオが攻めてきたと思い、スサノオと言い争いになります。
そして、スサノオの心を試すことになります。
これをウケイといいます。

アマテラスは、スサノオに「あなたの心が清く正しいことをどうやって示すのですか。」と問い詰めます。
アマテラスとスサノオは、ウケイをして子供を生むことにしました。

まず、アマテラスは、スサノオが持っていた「十拳の剣(トツカノツルギ)」をもらい、
三つ折りにし、天真名井(アメノマナイ)の水ですすいで噛み砕き、吹き捨てました。
この息吹から、三柱の女神が生まれました。
スサノオは、アマテラスの髪飾りから五柱の男神を生みますが、これは省略します。

こうして生まれた三柱の女神が、宗像三女神と呼ばれる神様です。
宗像大社では、沖ノ島にある沖津宮に多紀理毘売命(たきりびめ)、
大島にある中津宮に市寸島比売命(いちきしまひめ)、
田島にある辺津宮(へつみや)をそれぞれ祀っています。
この三柱を宗像神と称します。

宗像大社 鳥居

宗像神は日本書紀では道主貴(みちぬしのむち)と名付けられています。
アマテラスの別名は大日靈貴(おおひるめのむち)、
大国主のそれは大己貴(おおなむち)ですが、「貴(むち)」はアマテラス、
大国主、宗像神だけに付けられている最も高貴な神様を表す尊称です。

◆宗像大社の由来

宗像氏は、福岡県西部の海洋豪族で強力な水軍を持ち、玄界灘を支配していました。
この宗像氏は、宗像三女神を氏神として祀っていました。
そのため宗像大社は宗像氏が建立したと言いたいのですが・・・
公式サイトなどを見ても、「宗像大社は宗像氏が拝み、宮司を務めていた。」としか書かれていません。
これは、宗像大社の由来がいまだにわかっていないことを表しています。

古神道では海の彼方や山の山頂に死者の霊魂が集まる常世国があると信じています。
この常世国が神様の起源で、時代を経ると海の離れ小島や山など神奈備に神様が宿ると変わっていきます。
つまり沖ノ島や大島は神奈備であり神様そのものなのです。

交通の神様 宗像大社

沖ノ島は、海上を航海するときの道標でもあり、このため宗像神は交通の神や人々を正しい道に導く神として崇められています。

古代日本では陸路が発達していなかったので、交通手段は専ら海上交通でした。
そして、北九州~近畿間を移動する際、日本海ルートと瀬戸内海ルートの2つの経路がありました。

瀬戸内海は四方を山に囲まれた穏やかな海なので海上交通に適していると思われがちです。
しかし、あまりにも風が吹かないので船は潮の流れに頼らなければならず、目的地に向かう海流が発生するまで港で待機しなければいけませんでした。
そのため瀬戸内海ルートは時間がかかったのです。

一方、日本海ルートは南西や北東の風が吹くので、船の航行で風を利用することができ、
瀬戸内海ルートより短時間で移動できたのです。

宗像や出雲は交通が発達し、両地域が大和朝廷に組み込まれる以前から政治的な連携があったと推定されています。
宗像神はスサノオの子、出雲のオオクニヌシはスサノオの子孫であり、政治的連携は祭神にも反映されています。

今も交通の神様として崇められ、車を購入した際に、宗像大社で車のお祓いをいただく人が後を絶ちません。

宗像大社 交通安全

海の正倉院 / 沖ノ島
沖ノ島は玄界灘の真ん中に浮かぶ周囲約4キロメートルの島で九州本土から約60キロメートル離れています。
昭和29年から沖ノ島で発掘調査が行われ、4~9世紀の古代祭祀具や装飾品、縄文時代や弥生時代の石器、土器が発見され、俗に「海の正倉院」と呼ばれています。

歴史的に重要な物がザクザク出てきたので、梅原猛は因幡の白兎神話を解釈する際、
「オキノシマは隠岐と言われているが、実は宗像の沖ノ島なのではないか」とまで主張しています。

この説によれば、因幡の白兎は鰐に毛皮をはがされてしまいますが、これを沖ノ島で行われていた禊と解釈しています。
毛皮をはがされるということは、身を削がれることであり、確かにミソギとも読めます。
このことから、日本と朝鮮半島を行き来する際、沖ノ島で禊をしていたと推定されるそうです。発想の転換・・・一理あるかもしれませんね。

宗像大社の基本情報

住所:福岡県宗像市田島2331
電話番号:0940-62-1311(代)
アクセス:JR東郷駅北口下車、 神湊波止場行きバス(宗像大社経由)で『宗像大社前』へ
宗像大社公式サイト