中尊寺 / 岩手県

中尊寺

◆中尊寺について

中尊寺は、天台宗東北大本山で、山号は関山(かんざん)、本尊は釈迦如来です。
寺伝では開山様は、寺伝では円仁となっています。
奥州藤原氏ゆかりの寺として有名で、平安時代の平泉文化を現代に伝えています。
また、中尊寺境内は国の特別史跡に指定され、2011年には世界遺産にも登録されています。

実は、世界遺産登録にあたり、ユネスコの審査員は、中尊寺の浄土思想を理解できませんでした。
中尊寺は「浄土では、すべての生き物が平等である。このような平等な社会を構築しよう。」という理念で建立されたと説明しても、「平等社会とは真逆である封建社会」の頂点に君臨していた奥州藤原氏が建立したので、まったく説得力がなかったのです。

ところが、奥州藤原氏・藤原清衡は、中尊寺建立を中尊寺建立供養願文として京都の朝廷に報告していました。
ユネスコの審査員は、これに注目し、中尊寺の浄土思想を理解しました。
以下に、その文面を記します。京都の浄土思想とは、かなり異なっています。

中尊寺建立供養願文
『鐘の音は、あらゆる世界に分けへだてなく響き渡り、みな平等に苦しみを抜きさり安楽を与える。
攻めてきた官軍(京都の軍隊)も守った蝦夷も、度重なる戦いで命を落とした者は古来幾多あったろうか。
いや、みちのくにおいては人だけでなく、獣や鳥や魚、貝も、昔も、今も、はかりしれないほど犠牲になっている。
霊魂は皆、次の世の別な世界に移り去ったが、朽ちた骨は塵となって、今なおこの世に惨みを残している。
鐘の音が大地を動かす毎に罪なく犠牲になった霊が安らかな浄土に導かれますように…』

中尊寺 雪景色

◆中尊寺の由来と奥州藤原氏

第三代天台座主(てんだいざす)の慈覚大師・円仁が開山しました。
おそらく、それほど目立たない小さな寺だったのでしょう。
円仁の業績はあまり語られていません。

12世紀、奥州の豪族の藤原清衡が伽藍(がらん)を造営したことから、実質的な開基は清衡といわれています。
この藤原清衡とは、どんな人だったのでしょうか。

7~9世紀、朝廷と蝦夷の間で、断続的に争いが発生します。
この時代に朝廷に帰服した蝦夷を俘囚と言います。
俘囚は全国に移住させられますが、後に東北に戻ることができ、また東北にとどまった俘囚も居ました。

この俘囚の中で、陸奥国の安倍氏と出羽国の清原氏が東北の豪族として君臨します。
ちなみに陸奥国は青森県、岩手県、宮城県、福島県に、出羽国は秋田県と山形県に相当します。

奥州藤原氏の遠祖である藤原頼遠は、藤原北家秀郷流の系統で、平忠常の乱で忠常側についたため、陸奥国に左遷されたと推測されています。

頼遠の子・藤原経清は、宮城県南部の亘理地方に荘園を持つなど勢力を拡大していきます。また、経清は安倍頼時の娘を娶り、安倍氏一門の南方の固めとなっていきました。

経清の子・藤原清衡は、安倍氏と清和源氏が争った前九年の役の最中である天喜4年(1056年)に生まれました。
前九年の役は、終始安倍氏が優位に戦いを進めていましたが、源氏に清原氏が味方したので、一気に源氏が盛り返し、安倍氏は敗北してしまいます。

清衡7歳の時、父・藤原経清は、安倍氏に味方したため斬殺されます。
清衡の母は安倍頼時の娘でしたが、経清が殺害された後、安倍氏と敵対していた清原武貞と再婚します。清衡は清原武貞の養子として清原清衡と名乗りました。

永保3年(1083年)、清原氏の跡目争いのため、清原真衡・清衡、清原家衡との間で争いが起きます。
ここに源義家が介入し、清原真衡が死に内紛は収まりますが、家衡と清衡の仲は悪く、再度、内戦になります。
源義家は清衡側につき、家衡を破りました。
これを後三年の役と言います。

清原真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承します。
清原清衡は、藤原姓を名乗り、藤原清衡となり、奥州藤原氏が発生しました。

藤原清衡は、朝廷や藤原摂関家への献上品や貢物を欠かさず、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、奥州支配を容認しました。
奥州藤原氏は、中央から来る国司を拒まず、奥州第一の豪族有として国司に協力しました。そのため奥州は、朝廷が行う争いに関わることはなく、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と政治的中立を保ちました。
源平合戦の際も平和で独自の文化を確立していきます。

奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、拠点の平泉は平安京に次ぐ、第二の都市になりました。

ところが、藤原秀衡は、平治の乱で敗れた源義朝の子・義経をかくまってしまいます。
秀衡は、源頼朝から出された義経の引渡要求を拒み続けました。
源頼朝は、義経を長らく匿ったことで、奥州に出兵し、藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅びました。
鎌倉幕府を開く源氏は、東北に一大勢力があることが気に入らなかったのです。

◆中尊寺の見所

このように考えますと、中尊寺の見所は、京都では見られない平安文化である平泉文化が第一で、その次が東北の武将ゆかりの建築物になります。

中尊寺の参道は、月見坂と呼ばれる坂道です。

中尊寺 月見坂

参道沿いにあるお堂にお参りしながら、坂道を登って行くと本堂、金色堂に着きます。

金色堂
金色堂は、阿弥陀仏が置かれた阿弥陀堂で、藤原清衡により建立されました。
高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔が張られ、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされています。

須弥壇上には阿弥陀如来を中心に多くの仏像が安置され、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められています。

本堂
参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にあります。
1909年 (明治42年)の建築物で、2013年には、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われました。

中尊寺 本堂

金色堂旧覆堂
金色堂旧覆堂は、室町時代中頃の建造と推定されています。
1962年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきました。新しい覆堂を建てる際、現在の地に移築されました。

中尊寺 金色堂

経蔵
金色堂の近くにある、国宝の一切経を納めていた建物で、一部に平安時代の古材が使用されています。
鎌倉末期の建造と推定され、内部には螺鈿八角須弥壇が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像が安置されていました。
現在は、須弥壇、文殊五尊像ともに讃衡蔵(さんこうぞう)に移動されています。

中尊寺 経堂

白山神社能舞台
中尊寺の鎮守神社の白山神社内に能舞台が建っています。
嘉永6年(1853年)、仙台藩により再建されたもので、東日本唯一の近世能舞台の遺構です。

中尊寺 白山神社

讃衡蔵
中尊寺や山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設です。
本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像、薬師堂にあった木造薬師如来坐像、閼伽堂にあった木造薬師如来坐像をはじめ、多くの文化財が収蔵・展示されています。

その他にも弁財天堂、鐘が完全に覆われた鐘楼、本堂入口の山門、昭和52年建立の祈祷堂である不動堂、大日堂、薬師堂、観音堂、弁慶堂などたくさんの堂があります。

◆中尊寺の基本情報

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
電話番号:0191-46-2211
アクセス:平泉駅からバスで5分
中尊寺 公式サイト