見延山久遠寺 / 山梨

久遠寺

◆見延山久遠寺について

見延山久遠寺は、日蓮宗の総本山(祖山)です。
ここでは、日蓮について、日蓮宗について説明します。

◆日蓮について

日蓮は、鎌倉仏教の日蓮宗(法華宗)の宗祖で、滅後の1358年、後光厳天皇から日蓮大菩薩、1922年、大正天皇から立正大師の諡号が贈られました。

1222年(貞応元年)、日蓮は、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生しました。
漁業で生計を立てる庶民の出身で、父は貫名重忠、母は梅菊、幼名は善日麿でした。

1233年(天福元年)、安房国の清澄寺の道善房に入門し、名を薬王丸と改めます。
虚空蔵菩薩に「日本第一の智者とならしめ給え」と立願しました。

1238年(暦仁元年)~1253年(建長5年)、当時の最高学府である比叡山で、仏教全般や諸宗の法門を研究します。
次いで奈良の六宗・七大寺、高野山、四天王寺、また京都の寺を巡り、各宗派の教義の本質を把握していきます。
出家し「是生房蓮長」の名が与えられました。

久遠寺 石段

1253年(建長5年)、各宗派を巡るうちに、釈迦如来の教えは法華経にあると確信し、安房国の清澄寺に戻ります。
旭ヶ森で、初めて南無妙法蓮華経を唱え、大衆を前で「法華経が、末法の民衆を救済する唯一の正法である」と宣言しました。
これを宣唱題開宗宣言と言います。

名を日蓮と改め、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱えます。
これを「立教開宗」といいます。
この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行いました。

この立宗宣言の際、念仏宗の教義を激しく批判したため、念仏宗の信者だった安房国地頭の東条景信の怒りをかい、安房国から逃げ出します。

1254年(建長6年)、鎌倉の街頭にて辻説法をはじめます。
日蓮の弟子は、松葉ヶ谷の草庵で布教を開始しました。

1260年(文応元年)、立正安国論を著し、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。しかし、立正安国論に反発した幕府や念仏者により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちに遭います。これを松葉ヶ谷法難と言います。
これにめげず、ふたたび布教をおこないます。

1261年(弘長元年)、幕府により伊豆へ流罪にされます。
海の真ん中にある俎岩(まないたいわ)に置き去りにされますが、船で通りかかった川奈の船守弥三郎に助けられ、弥三郎夫婦によってかくまわれる事になります。
これを伊豆法難と言います。

1264年(文永元年)、安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失ってしまいます。
これを小松原法難と言います。

久遠寺

その後、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などと宗派問答をおこない、無駄に他宗派を怒らせたため、極楽寺良観や平頼綱により幕府に訴えられ、佐渡へ流罪が決まります。

流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述し、また法華曼荼羅を完成させました。
日蓮の教学や人生は、佐渡流罪前と流罪以後で大きく変わります。
このことから、日蓮研究者は、佐渡流罪を重要な契機として考えます。

1274年(文永11年)、流罪赦免となります。
幕府評定所に呼び出され、平頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれ、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」と答え、蒙古襲来の時期を予言します。

「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日、甲斐国波木井(はきい)郷の身延一帯の地頭である南部六郎実長の招きに応じ、波木井郷に行きます。そして身延山を寄進され、身延山久遠寺を開山します。

1282年(弘安5年)10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅しました。
享年61(満60歳)でした。
ちなみに死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定めていました。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになります。

◆久遠寺の歴史

久遠寺は、文永11年(1274年)、南部六郎実長が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き、西谷の地に草庵を構えたことに端を発します。

ここで、法華経の読誦、広宣流布、弟子信徒の教化・育成、蒙古軍の退散、国土安穏を祈念しました。

弘安4年(1281年)、十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられました。

室町時代の文明7年(1475年)、11世法主・日朝により、西谷から現在地に伽藍が移転されました。
戦国時代には甲斐国の守護・武田氏や河内領主・穴山氏の庇護を受け、門前町が形成されました。

江戸時代には、日蓮宗が徳川氏をはじめとする諸大名の帰依を受け発展しました。

寛永7年(1630年)、宗門の中興三師と言われる日重、日乾、日遠が居た頃、身池対論(しんちたいろん)がおこります。
身池対論とは、「寺の領地は国主の供養によるものである」と主張する受布施派と、「寺の領地は供養の施と仁恩の施があり、供養だけとは考えるべきでない」と主張した不受不施派との対立です。
徳川家康が不受不施派を禁止していたので、幕府は不受不施派を敗者としました。

その後、日脱、日省、日亨の三師が壮大な伽藍を整えました。正徳2年(1712年)、山内に133坊と最盛期を迎えます。

寛保4年(1744年)、下之坊より出火し、山内の11坊が焼失。
安永5年(1776年)、七面山の諸堂を焼失。
文政4年(1821年)、西谷御廟の八角堂と拝殿を焼失。
文政7年(1824年)、祖師堂から出火し、大雨の中13棟が焼失。
文政12年(1829年)、五重塔から出火し28棟を焼失。
慶応元年(1865年)、中谷の仙台坊から出火、支院17坊小堂8棟を焼失。

その後、復興されるも、明治8年(1875年)、西谷本種坊から出火。
再び伽藍や寺宝を焼き尽くしました。まさに火災との戦いでした。

◆久遠寺の見所

伽藍は明治8年の大火で焼失し、現在の多くの堂宇は再建されたものです。

総門が、久遠寺の最初の入り口で、ここから聖域に入ります。
「開会関」という扁額が掲げられています。
「開会関」とは、「一切の人々は法華経の信仰によって仏になる」という意味で、この門を通ることで仏の世界に入ることを示しています。

総門から門前町を通り抜けると、三門が現れます。
三門とは涅槃(悟り)に至るために必要な空、無相、無願の三解脱門を経る意味です。
本堂を涅槃に見立て、そこへ至るために通る門ということです。

この三門は日本三大門の1つに数えられることもあります。
二王門ともいわれ金剛力士が祀られています。さらに上層には十六羅漢が祀られています。

三門を入ると、右側には本多日生上人像が、その横には宮沢賢治の句碑があります。
左側には永田紀美(大映社長・永田雅一の母)の銅像があり、その後ろに聖徳太子を祀る太子堂があります。

久遠寺 山門

三門をくぐると目の前に石の階段が見えてきます。
この階段が菩提梯(ぼだいてい)です。高低差104mもある階段で、287段あります。
菩提とは、煩悩を断ち切って、悟りの境地に達することをいい、菩提梯には、悟り(さとり)に至る梯(きざはし)の意味が込められています。

本堂は1985年(昭和60年)に建立されたものです。
本尊は、日蓮聖人真筆の大曼荼羅本尊を木造形式にした、いわゆる立体曼荼羅です。
釈迦如来像、多宝如来像、四菩薩像、不動明王像、愛染明王像、四天王像、普賢菩薩像、文殊師利菩薩像、日蓮大聖人坐像などからなります。
また天井画の墨龍は有名で、加山又造の作です。

宝物館は、本堂の地下に設置され、開祖・日蓮に関係する貴重な資料を収蔵しています。
明治初期まで「書物出入の時は貫主へその断を遂ぐべき事」と厳しく徹底管理したので、所蔵品約5000点が散逸しませんでした。
久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等が展示されています。

久遠寺 五重塔

五重塔は、宝塔、仏塔、仏舎利塔とも呼ばれています。
シンボル的な五重塔は、世界への「法華経の発信塔」、「人々の平和な心の受信塔」、「法華経の総供養塔」とも理解されています。言われていました。

奥の院思親閣は、標高1,153mの身延山山頂、見延山ロープウェイの奥之院駅より徒歩3分の場所にあります。
ここは望郷の念を抑えがたい日蓮大聖人が、遥か故郷房州の空を拝し、両親や師・道善御房を思い回向した場所です。
日蓮入滅の翌年、高弟・日朗が亡き師の篤い孝心を後世に伝えるため、山頂に一宇を建立したものです。
日蓮が植えた4本の杉も残っています。日蓮聖人像、六老僧像、参十番神、常護稲荷大菩薩、草分稲荷大菩薩、子安八幡大菩薩を祀っていいます。

見延山 富士山

◆見延山久遠寺の基本情報
住所:山梨県南巨摩郡身延町身延3567
電話番号:0556-62-1011
アクセス:JR身延線身延駅から山交バスで約10分
見延山久遠寺 公式サイト