◆南禅寺について
南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山で、正式名称を「瑞龍山 太平興国南禅禅寺」と言います。臨済宗ですので禅宗のお寺ですね。
臨済宗を興したのは、鎌倉時代の栄西というお坊さんです。
南禅寺は、日本で初めての勅願寺です。
勅願寺とは、その時の天皇・上皇の命令で、国家鎮護、皇室繁栄を祈願し建立された寺を言います。
禅と国家鎮護が、どう関係するのでしょうか。
栄西が禅宗を興した時、禅宗は新興勢力で、比叡山や興福寺などの既成勢力からすると面白くない存在でした。
そこで、栄西は『興禅護国論』を記し、「禅」を「興」すと、国を「護」るのに有用であると主張したのです。
つまり、禅宗が国に大きな利益をもたらすと具体的に示したのです。
この主張が受け入れられ、栄西は政治権力と接近することができました。
当時、仏教の新興勢力は、大衆の心を掴むか、政治権力と結びつかないと宗派として生き残れなかったのです。
◆南禅寺の歴史
南禅寺は、亀山法皇の勅命で、正応四年(1291)、亀山天皇の生母である西園寺姞子(さいおんじきつし)の御所・禅林寺殿に、臨済宗のお坊さんである無関普門を開山に迎え、龍安山禅林禅寺としたことに始まります。
無関普門は開山後、すぐに亡くなってしまいます。
二代目住職の規菴祖圓(南院国師)の時代に、お坊さんが修業をおこなう場所である伽藍(がらん)が造営され、禅寺として機能します。
中国・南宋の寧宗は、インドの天竺五精舎の故事に倣い、径山、霊隠、天童、浄慈、育王の5寺を「五山」として保護しました。
鎌倉時代後期、日本でも禅宗が普及し、正安元年(1299年)、鎌倉幕府・執権北条貞時は、鎌倉の大きい5つの禅寺を選定し保護しました。
これを鎌倉五山制度といいます。どの寺が鎌倉5山であったのかは正確には分かっていません。
鎌倉幕府が倒れた後、京都の天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺が5山に選ばれ、京都が主体となった5山制度が運用されます。
これを京都5山制度と言います。
鎌倉時代が終わった建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としました。
至徳3年(1385年)、足利義満は自らが建立した相国寺を五山の第一とするため、南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけました。
その後、伽藍は明徳4年(1393)の大火・文安4年(1447)の失火、応仁の乱(1467)等によって荒廃しましたが、江戸時代初期に再興されました。
◆南禅寺の見所
・三門
現在の三門は、寛永5(1628)年、藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した家来の菩提を弔うために再建したものです。
歌舞伎の石川五右衛門の名台詞「絶景かな、絶景かな」で知られるように、楼の上からの眺めはすばらしいです。
・水道橋(水路閣)
南禅寺の水路閣は、明治23年(1890年)、琵琶湖の水を京都へと運ぶための水路橋として作られました。
造られた当時は景観を損なうと非難された一方で、見物人が殺到しました。
・枯山水庭園
天授庵(てんじゅあん)の東庭は、白石が敷き詰められた枯山水庭園です。
枯山水とは白砂と石で、水を一切使わず山水の景色を表現した庭園を言います。
心を落ち着かせる厳格な空間は、瞑想や座禅の場として今でも活用されています。
・高徳庵
縁結びの松もぜひお立ち寄りください。
◆臨済禅について
臨済宗と曹洞宗の禅の違いについて説明します。
臨済禅は、禅を組む前に、公案という問題が与えられます。いわゆる禅問答の問題です。
禅を組んで瞑想する間、ずっと答えを心の中で追い求めるわけです。
これに対し、曹洞宗では、禅の間は、ただひたすら心を鎮め、悟りの境地を目指します。
また、臨済宗は壁を背にして座るのに対し、曹洞宗は壁に向かって座ります。
◆南禅寺の基本情報
住所:京都府京都市左京区南禅寺福地町
電話番号:075-771-0365
アクセス:京都市交通局・地下鉄・東西線、蹴上駅下車、徒歩10分
南禅寺 公式サイト
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