増上寺 / 東京

増上寺

増上寺の由来

南北朝時代、関東に聖聡(しょうそう)というお坊さんが居ました。
下総国守護職の千葉氏胤の子として生まれ、明見寺(千葉寺)で真言密教を学びました。
19歳の時、茨城県にあった横曽根(よこそね)談所で浄土宗の聖冏(しょうげい)の談話を聞き、感動しました。
そこで浄土宗に帰依し、聖冏の弟子として浄土宗について学びました。

聖冏は五重相伝(ごじゅうそうでん)という布教方法を編み出しており、これを伝授された聖聡は、1393年、武蔵国豊嶋郡貝塚(現東京都千代田区)にあった光明寺という真言宗の寺を浄土宗に改宗し、さらに増上寺と名を改め、関東での浄土宗布教の拠点としました。

増上寺 門

五重相伝とは、浄土宗の教えを五つの順序に従って伝える法会です。
この法会は、初重(しょじゅう)から第五重 (だいごじゅう)まであり、その内容は以下の通りです。
・初重 (しょじゅう)・・・ 法然の「往生記』1巻に沿って、「機」について説明します。
・二重 (にじゅう)・・・ 浄土宗第二祖聖光(しょうこう)の『末代念仏授手印』1巻に沿って「法」(行)について説明します。
・三重 (さんじゅう)・・・ 浄土宗第三祖良忠(りょうちゅう)の『領解末代念仏授手印鈔』1巻に沿って「解」について説明します。
・四重 (しじゅう)・・・ 良忠の『決答授手印疑問鈔』2巻に沿って「証」について説明します。
・第五重 (だいごじゅう)・・・ 曇鸞(どんらん)の『往生論註』に沿って、「十念」について説明します。

徳川家の菩提寺

1584年(天正12年)、慈昌(じしょう)というお坊さんが増上寺の12代目住職になりました。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東に移動した時、増上寺の前を通り、慈昌(源誉存応上人)と対面し、これがきっかけとなり増上寺は徳川家の菩提寺となりました。
そして、1598年(慶長3年)、江戸城の拡張に伴い、増上寺は現在の芝(東京都港区)に移されました。

徳川家の菩提寺は寛永寺と増上寺の2寺ですが、風水学的に寛永寺は江戸の鬼門に相当する上野に移され、裏鬼門に相当する芝に増上寺が移されたのです。

東京タワー

関東十八檀林

壇林とは、江戸時代のお坊さんになるための学校です。
なかでも知恩院や増上寺で学ぶと住職になりやすく、現在のエリートコースでした。
このため、知恩院や増上寺は出世檀林とも呼ばれました。
浄土宗の関東十八檀林は、江戸幕府の寺院統制政策によって設定さました。

こうして増上寺は、浄土宗での地位が向上しました。
現在は総本山が知恩院、総本山に次ぐ寺格の大本山として、増上寺、金戒光明寺、知恩寺、清浄華院、善導寺、光明寺、善光寺があり、増上寺は大本山の一つに成っています。

また、江戸幕府の寺院統制政策の一環として、諸宗に対し触頭制度が設置されました。
触頭に選ばれた寺は、寺社奉行の命令を配下寺院に伝達したり、配下寺院の嘆願書などを幕府に送ったりと仲介機関をとして機能しました。
浄土宗の触頭は、東日本担当の増上寺、西日本担当の知恩院の2か所です。

増上寺

忠臣蔵の舞台

定期的に江戸を来訪する天皇の勅使は増上寺参詣も行いました。元禄14年(1701年)3月、天皇の勅使を迎えるため、増上寺の畳替えをしなければいけませんでしたが、このことを吉良義央が浅野長矩に教えませんでした。
これが原因で浅野長矩は殿中での刃傷事件の引き起こします。

これは有名な忠臣蔵のお話ですが、史実か作り話なのかは不明です。
誰もが知っている忠臣蔵の舞台にもなっているのが増上寺なのです。

増上寺

増上寺の基本情報

正式名称:三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)
住所:東京都港区芝公園4-7-35
電話番号:03-3432-1431
アクセス:
JR線・東京モノレール 浜松町駅から徒歩10分
都営地下鉄三田線 御成門駅から徒歩3分、芝公園から徒歩3分
都営地下鉄浅草線・大江戸線 大門駅から徒歩5分
都営地下鉄浅草線 大門駅から徒歩5分
都営地下鉄大江戸線 赤羽橋駅から徒歩7分
東京メトロ日比谷線 神谷町駅から徒歩10分
増上寺 公式サイト