◆靖国神社の由来
下関戦争、蛤門の変、第一次長州征伐の内戦などで、たくさんの戦死者が発生した長州藩は、藩内に招魂場を設け戦没者を手厚く葬りました。
しかし幕府は招魂場での小祠の設置を認めませんでした。
招魂場で祀られている人の中には幕府の敵である尊王攘夷派の人もいたからです。
1862年、長州藩は孝明天皇に尊王攘夷派の士の赦免を上奏します。
孝明天皇は、これを認め、彼らの墓をつくることを許可しました。
天皇によって、尊王攘夷派の故人は国の殉難者とされたのです。
孝明天皇による国の殉難者招魂弔祭によって、各地で殉難した人々の招魂祭がさかん行われるようになりました。
一方、京都でも1809年、村上都愷(くにやす)が霊明神社を創建し、葬祭・神葬祭を始めました。
当時、幕府により葬式は仏式と決められていましたが、村上都愷は、これに疑問を持ったのです。
1862年、霊明神社では京都で亡くなった長州藩をはじめとする各藩の尊王攘夷派の士を埋葬するようになりました。
明治元年(1868年)、明治政府は殉難者、戊辰戦争戦没者を祀る神社を京都に建立しはじめ、現在の京都霊山護国神社になりました。
霊明神社は、京都霊山護国神社に吸収されてしまいます。
明治2年(1867年)、九段坂上三番町通の元歩兵屯地跡に、招魂社が建立されはじめました。明治2年6月29日、東京招魂社が鎮座し、東京にも招魂社が造られたのです。
明治12年に靖国神社に改称されました。
◆祭神について
幕末から明治維新にかけて天皇のために亡くなった人、1853年のペリー来航以降の戊辰戦争や西南戦争の内戦、日清、日露、太平洋戦争などでの戦没者を英霊として祀っています。
本殿祭神の神座は、もともと1座でしたが、1959年、創建90年を記念して、台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮・能久親王、蒙彊神社(内モンゴル)に祀られていた北白川宮・永久王を遷座・合祀し1座を新設しました。
現在、神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座があります。
◆キリスト教と靖国神社
戦後、ダグラス・マッカーサーは、靖国神社を無くし、その跡地にドッグレース場を建設しようとしました。
しかし米国国務省は、このような計画を立ててはいませんでした。
靖国神社、明治神宮、乃木神社などの英雄を祭る神社により、軍国主義が復活することを危惧しました。
日本政府は、当時、神社は宗教ではなく慣習としていたので、閉鎖しても信教の自由に抵触しなかったのです。
この段階でこれらの神社の閉鎖も検討されました。
強制的に軍国主義的な神社を閉鎖してしまうと、日本人の反米感情が高まり望ましくないと決定し、公共の秩序や安全保障に反しない範囲で、これらの神社の存続を認めました。
GHQは、信仰の自由を日本政府に要求しました。が、
宗教的な靖国神社の廃止は、信仰の自由に反してしまうのです。
ところで、ダグラス・マッカーサーのドッグレース場計画は、賛成派と反対派に別れ、激しく対立しました。
マッカーサーは、カトリック教会のブルーノ・ビッテル神父やパトリック・バーン神父に助言を求めました。
「国家のために死んだ軍人に対し敬意を払う権利と義務は、戦勝国と敗戦国の両方が平等に所有している。」
「靖国神社の焼却は、連合軍の占領政策に反する人権を無視した犯罪である。」とビッテル神父は言いました。
カトリック教会の見解はこうでした。
靖国神社が国家神道のランドマークで、戦争を引き起こす国家主義の根源なら、国家神道制度を無くすべきであり、靖国神社とは関係がありません。
カトリック教会は、信仰の自由が認められるなら、神道、仏教、キリスト教などなど、どのような宗教を信仰する人であっても、国家のために死んだ者は、すべて靖国神社に祀られるべきである。
こうして、靖国神社がドッグレース場になることを免れた逸話ができました。
◆靖国神社の見どころ
靖国神社には、東郷坂や参道の桜並木、大きな鳥居などがありますが、戦争の悲惨さを物語る遊就館は是非見ておきたいですね。
戦争時に生まれ、国のために若くして散っていくしかなかった人々が真剣に生きた証しが残っています。
「何事にも真剣に取り組むことが、一生懸命に生きること」と当時の人が教えているように思えてきます。
◆靖国神社の基本情報
住所:
電話番号:03-3261-8326
アクセス:東京メトロ半蔵門線・東西線、都営地下鉄新宿線 九段下駅 下車「1番出口」より徒歩1分
靖国神社 公式サイト
◆関連サイト
明治神宮
最近のコメント