◆浅草寺の由来
飛鳥時代(628年)、現在の隅田川である宮戸川で檜前浜成、竹成という兄弟が漁をしていると、投網の中に仏像が入りました。
仏像は食えないので、漁師にとって有難いものではなく、そのまま捨てました。
しかし、網を投じるたびに、この仏像がかかり、魚が捕れないのです。
漁師の兄弟は、このまま同じ仏像がかかり続けると、魚が捕れないと考え、この仏像を持ち帰りました。
兄弟の主人である土師中知(はじのなかとも)に仏像を見せると観世音菩薩であるとわかりました。
次の日の朝、地域の子供たちが草でお堂を作り、この仏像を祀りました。
土師中知は、「南無観世音菩薩を称えて願い事をすれば、必ず願い事を叶えてくれる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や地域の人々に語り聞かせました。
土師中知は、自宅を寺にし観音菩薩を一生、供養しました。
この寺が浅草寺(せんそうじ)なのです。
浜成・竹成兄弟は、おそらく大漁を祈願したことでしょう。
ちなみに、浅草寺の山号は金龍山です。
これは観音さまが現れた日に、一夜で寺の回りに約千本の松が生え、3日後には天から金の鱗をもった龍が松林に下ったからです。
ちなみに、浅草寺は天台宗に属していましたが、戦後独立し聖観音宗の総本山になりました。
◆秘蔵の本尊
大化元年(645年)、勝海上人が寺を整備しました。
このとき、観音様が上人の夢の中に現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げました。
上人は、このお告げにより本尊を公開しない秘仏と定めました。
錠をかけた幾重もの厨子(ずし)に入れられ、寺の住職であっても拝することを慎んでいます。
その代わりに、平安時代初期(857年)、延暦寺の円仁が訪れ、秘蔵仏の代わりに人々が拝むための「お前立ち」の観音像が造られています。
このことから、浅草寺は、勝海を開基、円仁を中興開山としています。
誰も見たことがない本尊って、本当に存在するのか不思議に思いますよね。
実は泥棒に盗まれてしまったから、これを隠すため秘仏の掟を定めたのでは・・・という思いが頭をよぎります。
実は明治新政府は「本当に本尊があるのか?」という疑いをかけました。
神仏分離令によるものでしょう。
この時、役人が調査を行っています。
そして、本尊の実在が確認されました。
泥棒に盗まれてはいなかったのです。
20センチくらいの奈良時代の聖観音像で、焼けた跡があり両手足はありませんでした。
◆何と言っても雷門、そして大わらじ
風神雷神門こと雷門は下町浅草の代名詞となり、東京観光に訪れた外国人で賑わっています。
この雷門は慶応元年(1865年)に火災で焼失してしまいましたが、昭和35年(1960年)に松下幸之助さんが再建したことでも有名です。
シンボルの大提灯は松下電器製です。
雷門を越え仲見世通りを歩いていくと、宝蔵門が正面に見えてきます。この裏側に回ると大きなわらじが奉納されています。
宝蔵門の仁王尊に奉納する大わらじは、昭和4年から始まりました。
折柄楯岡町の青年団主催により藁(わら)製品の展示品評会が開催されることになりました。この展示品評会の目玉製品として、青年団が集まり大わらじを製造し、奉納されたのです。
仁王様が履くわらじは大きいのです。
こんな大きなわらじを履く仁王様が寺を守っているので、魔が去っていくのも当然ですね。
◆招き猫発祥の地
招き猫の起源は、全国にたくさんあり、浅草寺も招き猫発祥の地の一つです。
江戸時代、今戸焼のお稲荷さんを神棚に飾る風習が流行りました。
このお稲荷さんを製作している窯元では、猫の置物も製造していました。
明治時代になり、お稲荷さんを神棚に置くことが禁止されると、猫の置物、すなわち招き猫が大流行したのです。
この猫の置物が浅草寺境内で売りだされたと記された文章が実在するので、招き猫の起源としては有力となっています。
◆浅草寺の基本情報
住所:東京都台東区浅草2-3-1
電話番号:03-3842-0181
アクセス:
東武スカイツリーライン:浅草駅より徒歩5分
東京メトロ銀座線:浅草駅より徒歩5分
つくばエクスプレス:浅草駅より徒歩5分
都営地下鉄浅草線:浅草駅A4出口より徒歩5分
浅草寺 公式サイト
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