◆息栖神社について
息栖神社(いきすじんじゃ)は、鹿島・香取の両神宮とともに下三宮巡りの1つとして、人気の神社です、
息栖神社は、大同 2 年(806)、 日川地区から現在の鎮座地に移されました。
「日本三代実録」などの古書では「於岐部説神社」と書かれたりしています。
この於岐部説(おきつせ)は沖洲を意味します。
古代、東国三社の鎮座地には、香取海(かとりのうみ)という内海が広がっていました。
このことから、於岐部説神社とは、利根川河口にあった香取海の沖洲にある神社という意味なのです。
現在、交通手段は車や鉄道が主流ですが、その昔、運河が広がる地域では、運河の船もまた主な交通手段となっていました。
利根川と常陸川が合流する手前の水門から、常陸川を上流に行くと息栖大橋があります。
この橋の近くに息栖神社があるので、昔は運河を利用し参拝されていたと思われます。
◆息栖神社の祭神について
息栖神社の主祭神は、久那戸神(くなどのかみ)です。
久那戸神は、社伝では鹿島神・香取神による葦原中国の平定で、東国への先導をした神と言われています。
古事記をしっかり読むとタケミカヅチやフツヌシを東国に先導した神様は居ないのです。社伝にある神様は古事記には記されていない神様となります。
日本人名大辞典によれば、クナドは、「来な処」と書き、「来てはならない所」を意味します。
もともと、道の分岐点や峠、村境などで、外敵や悪霊の侵入から守る神様でした。
クナド神は峠の神様であると考えられ、古事記では黄泉から帰ってきたイザナギが禊をした際、脱ぎ捨てた褌から峠の神様の道俣神(ちまたのかみ)が現れたとされています。
日本書紀では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言い、投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が現れたとしています。
クナドの神様は、道教の影響を受け、道祖神となっています。
相殿神には、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)が祀られ、古事記では、タケミカヅチと共に葦原中国平定に赴きました。もともとイザナギとイザナミの子でした。
アメノトリフネは神様が乗る船と考えられるようになり、日本書紀ではタケミカヅチと共に葦原中国平定をしたのは「稲背脛(いなせはぎ)」という神様に変わり、この二神が天鳥船、天合船に乗り、葦原中国に来たとされています。
住吉三神 (すみよしさんしん) は、ツツノオと称し、黄泉から帰ってきたイザナギが禊をした際に現れた上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の事を指します。
◆東国三社の祭神のまとめ
東国三社の祭神は国譲りに関係していますが、どの神社が誰を祀っているのかまとめてみましょう。
古事記では、葦原中国平定のためコトシロヌシに派遣された神様は、タケミカヅチとアメノトリフネになっています。
日本書紀では、タケミカヅチとイナセハギになっています。アメノコヤネは、二神が乗ってきた船になっています。
鹿島神宮の祭神は、タケミカヅチで、香取神宮はフツヌシです。
フツヌシは、タケミカヅチと同一視され、古事記には登場しません。
日本書紀では、カグツチの子孫とされ、タケミカヅチと共に戦ったとありますが、フツヌシはイナセハギとは異なります。
フツヌシは、刀の神とされていたので、タケミカヅチが持っていた刀剣と考えられ、日本書紀には登場しないのです。
息栖神社の主祭神はクナドの神で、タケミカヅチとアメノトリフネ、またはタケミカヅチとイナセハギを東に先導した神様と言われています。
相殿にはアメノトリフネが祀られています。
◆息栖神社の見どころ
神門以外は、昭和35年(1960年)の火災で焼失したので、鉄筋コンクリート造りの本殿、幣殿、拝殿からなっています。
神門は、弘化4年(1847年)に造営されたものです。
日本三霊水「忍潮井」
利根川の支流付近に大きな鳥居があり、支柱の両側に小さな鳥居が立てられています。
その鳥居の下から、泉が湧きだしています。
汽水域では、通常、塩水が湧くのに、この井戸は、汽水の中で真水が湧く、非常に珍しいもので、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられています。
忍潮井、忍塩井(おしおい)と呼ばれ、左右の泉は、それぞれ女瓶、男瓶と呼ばれる瓶が据えられていて、その中から湧き出しています。
男瓶は銚子の形、女瓶は土器の形をしており、両瓶は、水の澄んだ日にしか姿を現さず、その姿が見られると幸運が舞い込んできます。
◆息栖神社の基本情報
住所:茨城県神栖市息栖2882
電話番号:0299-92-2300
アクセス:JR総武線(成田廻り) 小見川駅下車、タクシーで10分
JR鹿島線 鹿島神宮駅または潮来駅下車、タクシーで20分
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